東京新聞 3月7日付 「アーチに託す 校舎解体惜しむ文化学院OB」 |
1937年に完成した本校舎の象徴だったアーチ形の玄関=いずれも東京・神田駿河台で
昭和初期の名建築として知られた人文系専門学校「文化学院」(西村八知校長)の校舎が、 四月の入学式を最後に解体される。来年末にも十数階建てのビルに建て直す計画だが、 ツタの絡まるクラシックな外観は東京・神田駿河台の街に溶け込み、文化・芸術分野で個性的な人材を輩出した 自由な校風の象徴でもあった。 同学院でいまの活躍の土台をつくったOBの著名人から、校舎への惜別の思いを聞いた。 米米クラブの中心メンバーで、いまは美術家、映画監督としても活躍する石井竜也さん(46)=美術科出身=は 今月一日、校舎の記憶を写真で残そうと、久しぶりに母校を訪れた。 「床には乾いた油絵の具が積もり、何もかもが昔のままだった。そこだけ時間が止まっているようで、 壊されると思うと涙が出てきた」と言葉を詰まらせた。 米米クラブは、在学中に同学院の仲間らと結成した。 デビュー当時は、その珍奇なパフォーマンスから色物扱いされたが、ヒット曲の連発で押しも押されもせぬ スーパーバンドとなり、一九九七年に解散するまで大きな人気を誇った。 「ここの生徒たちは、のほほんとしているように見えるのだけど、みんな自己流の生き方をしている。 社会からずれていても、やり通せば最後は社会がついてくる。それを教えてくれたのが文化学院」 と話した。 八〇年代にカフェバーブームを仕掛け、数々の流行スポットをつくり出してきた空間プロデューサーの松井雅美さん(55) =美術科、建築科=は 「学校らしくなく、パリのアパルトマンのような雰囲気でした。せめて外観だけでも残してほしかった」 と語る。 学生運動が盛んな時代だったが 「遊び人はいても、政治的な雰囲気ではなかった」 と振り返る。 むしろ、近くの明大、日大の学生が警官隊に追われ、シンボルの玄関アーチをくぐって逃げ込む姿をよく目にしたという。 同学院は一九二一年、教育家の西村伊作氏が設立。 同時代にできた専門学校が次々と大学昇格を図るなか 「拡大を求めず、伝統を大切にする」(同学院・竹内宏二理事) 方針を貫いた。 中卒者対象の高等課程と高卒者向けの専門課程があり、生徒数は計五百四十人。 こぢんまりとしていても、多くの著名人が巣立っている。 女優のとよた真帆さん(38)は「絵が描きたい」という思いが募り、学習院高校から高等課程の美術科二年に編入した。 「個性的な生徒に囲まれ“野に放たれた獣”になった。そこでもう一回、生まれた気がします」と語る。 中庭にみんなで落書きをしていたら先生に見つかった。 「怒られると思ったら、先生は落書きの一つ一つを批評し始めて、最後に『人生は暇つぶし…』とつぶやきながら 立ち去っていった。その言葉が心に残っています」 と振り返る。 来年末に完成予定の新校舎は、延べ床面積が約二倍に広がる。 竹内理事は「伝統も大事だが、制度疲労をきたしている面も否めない」と話す。 最近の出身者にあたる二十、三十代で、各界で知名度のあるOBが少なくなっていることを例に 「かつての勢いが失われた。デジタル部門の充実など時代の流れに対応する必要もある」 と強調する。 象徴的だった玄関アーチのデザインは、新校舎にも取り入れ、伝統の良さも残すという。 「勉強はしなかったが、自由とは何かを身体の芯(しん)に染みこまされた」 と言うファッションデザイナーの菊池武夫さん(66)=美術科=は、このアーチについて 「古きそのままの状態で新校舎の中に取り込んでほしい。古いものと新しいものを融合し、創設者・西村氏の 息吹を建物から感じ取れるようにしてほしい」と提案する。 どこか浮世離れしながらも日本の教育に欠けた何かが文化学院にはあった。 校舎が“普通”になっても、その何かを継承していってもらいたい−。これが、出身者共通の思いだ。 文化学院はほかにも著名な出身者が多い。主な顔ぶれは次の通り。 ◆主な出身者 ▽作家 野口冨士男、杉本苑子、辻原登、久米穣、高木敏子、金原ひとみ ▽評論家 吉沢久子、矢野誠一 ▽舞踏家 谷桃子 ▽画家 長沢節 近岡善次郎、久里洋二 ▽映画監督 亀井文夫 ▽心理学者 秋山さと子 ▽デザイナー 鳥居ユキ、稲葉賀恵、植田いつ子 ▽俳優 長岡輝子、丹阿彌谷津子、南田洋子、犬塚弘、十朱幸代、入江若葉、前田美波里、中村まり子、秋川リサ ▽スタイリスト 渡辺いく子 ▽音楽 石丸寛、米米クラブ(得能律郎、大久保謙作、小野田安秀) ▽写真家 大西公平 (敬称略) |