□ 文化学院の歴史 □
1920(大正9)年 | 文化学院創立 | 創立者・西村伊作は自分の長女が翌年女学校に進学するにあたり、 それにふさわしい学校として、文化学院を創立。 『中学校令や高等女学校令に縛られない自由な学校を』との考えから 我が国初の男女共学・服装の自由などを取り入れた。 |
1923(大正12)年 | 校舎消失 | 9月1日、関東南部を襲った大地地震により伊作設計による英国 コテージ風の校舎消失。 |
1925(大正14)年 | 大学部設立 | 第1回生の卒業したこの年に、本科と美術科を設立。 |
1935(昭和10)年 | 与謝野寛没 | 学院創立に尽くした与謝野寛、急性肺炎のため死去。 学院葬が行われる。 |
1937(昭和12)年 | 旧館 校舎建設 | 震災復興助成金と在学生の父兄、教員、卒業生などに学校債を募り 現在の旧館 校舎建設。 |
1942(昭和17)年 | 与謝野晶子没 | 学院創立に力を尽くし、その後も学監として教壇に立ってきた晶子が病没。 |
1943(昭和18)年 | 学校閉鎖 | 太平洋戦争2年目にして創立以来の自由思想が国の方針に合わないとの理由で 文化学院強制閉鎖。 同時に校長であった伊作も警察に拘禁される。 |
1945(昭和20)年 | 終戦 | 伊作、未決のまま開放。 軍に接収され、捕虜施設として使われていた校舎も返還される。 |
1946(昭和21)年 | 学院再開 | 2年生・学年別なし・週5日制の文科を創設しての再開。 |
1947(昭和22)年 | 新科創設 | 美術科と英語科を創設、また49年には土曜日のみのデザイン科が創設される。 |
1963(昭和38)年 | 伊作没 | 創立から一貫して学院の原動力・精神的柱であった伊作が病没。 享年78歳。 その後、伊作の長女石田アヤ(旧姓:西村)が校長となる。 |
1965(昭和40)年 〜1967(昭和42年) |
新科創設 | 65年に英文科創設。 72年にはこの英文科と本科と統合されて文学科となる。 また67年には、伊作が望み果たせずにいた建築科の創設を、 伊作長男であり建築家の西村久二が実現させる。 |
1988(昭和63)年 | アヤ没 | 着任から30年近く学院の発展に尽くしたアヤが急逝。 伊作三男・西村八知が校長となる。 |
2001(平成13)年 | 科の改称と創設 | 文学科を創造表現科に改称。 また2004年には高等課程にデジタルデザイン科が新設される。 |